マイナスが覆ることは無い

小学2年生の頃だった

先生は椅子に登って教室の掲示物の貼り替えをしていた

古いものを外して新しいものを画鋲で留めて

 

周囲には生徒たちがお手伝いする!と我先に駆け寄って、外した掲示物を受け取ったり、新しい掲示物を渡したり皆で協力していた

 

私も例に漏れず先生の手伝いをしたくて近づき、椅子に乗ってる先生が棚に置いてる画鋲を取りにくそうにしてるのを見て、画鋲を手渡ししようとした。

しかし受け取ろうとした先生の手に画鋲の先が当たり、「痛っ、痛い!」と言う

慌てて持ち直して渡そうとしても同じだった。

 

「もうやらなくていいからあっち行ってて!」

 

この出来事が大体の私の人生の縮図だと、20年経った今思う。

 

 

 

 

なぜ不器用なんだ

なぜ同じように出来ないんだ

なぜ皆には見えてるものが見えない

なぜ皆には聞こえてるものが聞こえない

なぜ慎重に言い放った言葉が浮く

私にも目や耳や口は備わってる

でもそれは本来の半分程度にしか役立たずだ

 

「人並み、普通、当たり前」

この言葉が憎たらしくて羨ましくて妬ましい

 

「個性なんてみんな在る」

「みんな違ってみんな良い」

この言葉達も邪魔で仕方が無い

 

みんな良いなら何故「モテる、モテない」の概念が現れる?

それは一定の評判、感性が存在するからだ

必要とされる人間とそうでない人間は必ず分類されるのだ

 

遠くへ行くなら

ここに居られないなら

居場所がないなら

遠くへ行くなら

 

余計な物は何も無い、透明で涼しくてきらきらした場所がいい

昼には抜けるような青空に時々流れてくる雲の形を眺めたり

夜には天の川が見える満天の星空の下寝転んで流れ星を探したい

 

どうせみんなが見えてる世界は

私の目には写ってくれないのだから

 

生悪説

どこで間違った、どこで壊れた

記憶を巻き戻して

遡って

辿って、辿って

間違った所から切り離そう

正しく作り直そう

 

辿って、辿った先に

物を覚えて考えて言葉を放つようになった悪意の無い幼い自分が居た

特に壊れたわけではない歪な自分がいた

 

不良品と故障品は違う

私は今日も、自分を故障品だと偽る

直そうと思えば直ると言い聞かせる。

 

 

偽り

 

初めに何かおかしいと気づいたのは十代後半の頃だった

それに気づくまでは「運が悪い」「人が悪い」「間が悪い」をひたすら理由にしてきた気がする。

勿論そんな場合も間違いなくあったが

明らかに私は皆と違う、何が違うのか分からない

 

昔から成績は中の上ほどだった、勉強はした分だけ点数に現れた

容姿は、醜悪でも端麗でもなく平凡そのもので、服装や身だしなみに気をつければでそれなりの評価は得られた

 

じゃあ何がおかしい?

「普通でない」と気づいた日から、尚更普通に見られるよう努力してきた

 

普通の人が、「普通」に行うことを「努力」して行う。

まずその時点で最悪な結論に至りそうだったが見て見ぬふり、あたかも元からそこに無いものとしてこれから先ずっと目を逸らし続けることにした。

 

   臭いものには蓋をしろ

 

ここから先、更に大人になるにつれて、その蓋をし続けた中身がどうなるかなんて、分かっていても成す術は無いのだから。